
暗黙知について一歩踏み込んで考える(後編)──「暗黙
本記事では、博報堂DYホールディングス執行役員Chief AI Officer、Human-Centered AI Institute代表の森 正弥が、AI時代の企業競争力の源泉として議論されることが増えた「暗黙知」について、その解像度を上げるための考察を前後編にわたって解説する。
前編では、ポランニーの洞察、SECIモデル、QWAN(名前のない質)という理論の系譜をたどり、暗黙知を「引き出し」「型」「つながり」「発想」の4つのタイプに整理した。後編では、知識を「どう働かせているか」に踏み込む「暗黙考」、それを行動と伝達へつなげる「暗黙動」という2つの概念を提案し、暗黙知を組織の自己進化とAI時代の競争力へ接続する道筋を描く。
暗黙知から暗黙考へ
「暗黙知」という言葉は、「知」という語があるがゆえに、どうしても「知っていること」に焦点を当てやすい。しかし、熟練者の力の本質は、知識を持っていることそのものよりも、それをどう働かせているか、どのように見て、考え、判断しているかという過程にあるのではないか。そこで補助線として提案したいのが、「暗黙考(Tacit Thinking)」という概念である。
暗黙考とは、意識的な言語化を経ずに行われる高度な認知プロセスの総体を指す。認知科学や意思決定研究の領域で知られるゲーリー・クラインらが提唱した「自然主義的意思決定(Naturalistic Decision Making)」の枠組みでは、専門家は限られた時間と情報の中で、分析的な比較検討を重ねるというより、蓄積された経験に基づく直観を働かせながら、実行可能で妥当な判断に到達すると考えられている。着眼点の鋭さ、判断の速さ、思考の運び方の確かさ、そして危険を察知する感覚は、いずれも暗黙考の表れである。

熟練者の「見え方」と危険察知
暗黙考の重要な機能の一つが、破滅的な失敗を避けるための「危険察知」だ。これは、いま起きている状況が、自分の中にあるメンタルモデルの「通常のパターン」からわずかにずれたとき、違和感として現れる。熟練者は、明確な言葉で説明する前に、何かがおかしいと感じ取る。この感覚は曖昧な勘として片づけられがちだが、実際には、長年にわたる経験の蓄積と、状況認識の精度に支えられた認知の働きである。
ここに、前編で紹介したポランニーの「近接項」と「遠隔項」を重ねると、理解はさらに深まる。熟練者は、手元の操作や数値、断片的な兆候といった近接項を見ながら、その先にある目標状態や全体の質、進行中のシステムの健全性といった遠隔項を同時に見ている。どこを見て、何を異常と感じ、何を保とうとしているのか。その「見え方」の構造を明らかにすることが、暗黙考の抽出につながる。
暗黙考を抽出する方法
実践的な方法としては、熟練者の行動を動画で観察し、何を見ているのか、どこに注目しているのか、どのタイミングで判断を切り替えているのかを記録するアプローチがある。行動そのものだけでなく、視線、間、ためらい、確認の順序を丁寧に追うことで、表面には現れにくい思考の流れが見えてくる。
また、「ShadowBox Method」と呼ばれる手法も参考になる。実際の判断場面に近い状況を用意し、熟練者がその局面で何に注目し、どのように判断したのかを段階的に言語化していく方法である。新人や中堅との違いを比較することで、着眼点、判断の優先順位、見落としやすいリスクの捉え方が明らかになり、熟練者のノウハウを新人が効率よく身につけるための手がかりが得られる。
暗黙知を「知っていること」としてだけでなく、「暗黙のうちに考えていること」として捉え直すことができれば、継承や育成の方法は、もっと豊かに設計できるはずだ。
暗黙知から暗黙動へ:主体性と共感・共鳴に支えられた伝達
さらに一歩踏み込むと、暗黙知や暗黙考だけでは捉えきれない領域として、「暗黙動(Tacit Acting)」という視点が重要になる。暗黙動とは、思考や判断がどのように具体的な身体的行動や社会的な働きかけへと変換されるのかという、「実践の様式」を指すものである。
暗黙動を支えているのは、行為者が抱く「何が望ましいか」「どうあるべきか」という、アレグザンダーのQWANにもつながる信念である。野中郁次郎氏が重視する「フロネシス(Phronesis:賢慮)」、すなわち個別の状況において全体の善を見極めながら判断し、実行する力も、この価値観と深く結びついている。信念に裏打ちされた行動は、不確実な状況の下でも判断の軸を失いにくく、周囲に対して説得力とリーダーシップをもたらす。

主体性・行動・貢献の相互作用
暗黙知は、図書室に保管される静的なアーカイブ情報とは異なり、極めて動的で実践的な性質を持つ。そのダイナミズムは、「主体性」「行動」「貢献」という3つの要素の相互作用として理解できる。同じ職場で同じ経験をしたとしても、そこから何を受け取り、何を自らの知識体系に組み込むかは人によって異なる。
その違いを生むのは、信念、価値観、美意識、あるいは問題意識である。暗黙動は強い目的指向性を持ち、状況への「貢献」という形で発動する。熟練者が無意識のうちに行っている作業手順の工夫や道具の独自の調整も、「よりよい結果を出す」「致命的なエラーを防ぐ」という全体への貢献に向けられた適応行動の結果とみることができる。
共感と共鳴が知識移転を駆動する
組織において、個人の内面にとどまる暗黙知が他者へと伝わり、集合知へと育っていくための駆動力となるのも、「貢献しようとする意思」と、それを伴った「行動」である。暗黙知はその性質上、言語による明示的な伝達が難しい。だからこそ、教える側と学ぶ側のあいだに、信念や共感に支えられた実践が必要になる。
この知識移転の過程で中核となるのが、「共感(Empathy)」と「共鳴(Resonance)」である。熟練者が、初心者のつまずきや苦悩に自分自身の過去の経験を重ね合わせながら共感し、身体に刻まれた知恵を分かち合おうとする。初心者が、熟練者の表面的な技術だけではなく、その背後にある哲学や美意識、仕事に向き合う姿勢にまで心を動かされ、それを自らに取り込もうとする。この双方向の感情的・精神的な同期が起きたとき、暗黙動は成立し、暗黙知は業務スキルの移転という枠を越えて、組織の文化やDNAとして継承されていくのではないだろうか。

自律分散と共有から自己進化システムへ
そもそもポランニーは、科学的推論や客観的とされる実証の過程においても、その土台には科学者個人の身体的経験、直感、美的感覚、そして対象に向かう情熱といった「個人的知識(Personal Knowledge)」があると指摘した。この見方に立つと、暗黙知は人間の身体的・認知的な限界の範囲にとどまり、組織の内部に自律的かつ分散的に存在している。形式知がデータベースや文書として一元管理されやすいのに対し、暗黙知はそれを体現している「人」に属し、特定の環境や文脈の中で形成されるため、強い文脈依存性を持つ。
逆説的ではあるが、この自律的・分散的な性質は、環境の複雑さに向き合ううえで有効に働く。完全にマニュアル化されたプロセスは、想定外の事態に直面した際に柔軟さを失うことがある。しかし現場の最前線に熟練者がいれば、その場での判断や調整が可能となり、組織全体として適応力を保ちやすくなる。暗黙知は、目には見えにくいものの、組織にレジリエンスをもたらすネットワークの結節点として機能しているのである。
暗黙知を形式知へと移していくことは、自律的・分散的に存在する知を、対話と実践を通じて共有し、学び直し、再び現場で活かしていくことであり、同時に、自律・分散による暗黙知のさらなる発生を促していくことでもある。個人の内面に宿るQWANの追求から始まり、暗黙考が共同化を通じてチームの暗黙動として共鳴し、パターンランゲージやAIの力を借りながら表出化・連結化され、再び個人の内面に取り込まれていく。
このSECIモデルの循環が組織に定着することは、外部環境の変化に受け身で対応するだけの集団から、自らの内部から新しい価値や適応力を生み出し続ける「学習する組織」、いわば自己進化システムへと変わっていくことを意味している。
終わりに:AI時代を生き抜くために
AIが広く普及し、誰もが似たようなツールを使う時代には、同質化・均質化の罠が待っている。同じようなデータを、同じようなAIで処理すれば、似たような答えが返ってくるのは自然なことだ。そこでは一定の質は確保されるかもしれないが、差異は生まれにくい。
だからこそ企業は、自らの暗黙知を明示的な知識へと変換し、それをAIのコンテキストとして活かしていく必要がある。ただし、それは情報を整理して与えれば足りるという話ではない。組織として何を強みとし、どのような価値を大切にしてきたのかという固有性の追求がなければ、同質化の流れから抜け出すことは難しい。組織固有の暗黙知、すなわち「引き出し」「型」「つながり」「発想」の4つのタイプ、そして暗黙考・暗黙動をAIと組み合わせていくことで、模倣されにくい循環型の知的生産の土台が形づくられていく。
暗黙知をどう活かし、どう育てていくかは、AI時代における企業の競争力を左右する論点である。それは技術導入の問題だけではなく、人間とは何か、組織とは何かをあらためて問い直す営みでもある。暗黙知の探求は、AI時代だからこそ、いっそう丁寧に深めていく価値がある。
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森 正弥博報堂DYホールディングス執行役員Chief AI Officer、 Human-Centered AI Institute代表1998年、慶應義塾大学経済学部卒業。外資系コンサルティング会社、グローバルインターネット企業を経て、監査法人グループにてAIおよび先端技術を活用した企業支援、産業支援に従事。
東北大学 特任教授、内閣府AI戦略専門調査会委員、日本ディープラーニング協会 顧問。
著訳書に、『ウェブ大変化 パワーシフトの始まり』(近代セールス社)、『グローバルAI活用企業動向調査 第5版』(共訳、デロイト トーマツ社)、『信頼できるAIへのアプローチ』(監訳、共立出版)など多数。